「弾いた音」と「聴いた音」
2002.12.22 ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗
- 「弾いたときに感じる音」と「聴衆が聴く音」
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ヴァイオリンの研究の難しさとして、「弾いたときに感じる音」と「聴衆が聴く音」の2種類が存在する事です。これまでの多くのヴァイオリンオン研究では、後者を研究する事がほとんどでした(ヴァイオリンを演奏できない研究者は、その存在さえも知らないのです)。それは当然なことです。なぜならば、ヴァイオリンの最終目的は音を出す事だからです。しかし、このような側面からだけヴァイオリンの研究を行うと、多くの矛盾点も出てきます。
その有名な例としては、新作楽器と古い楽器とを目隠しで演奏して、聴衆にどちらが良いかを当てさせるという実験です。この様な場合、その多くは新作楽器と古い楽器との明確な差は出ないものです。場合によっては、数億円もする名器よりも、100万円程度の(場合によってはそれ以下の)新作楽器の方が良いと判断される事もあるのです。
それではそれらの楽器間で、ほんとうに性能差がほとんど無いのかというと、そう簡単なものではありません。演奏者は聴衆が感じる以上に、楽器の違いを感じるのです。これが「弾いたときに感じる音」です。
- 「弾いたときに感じる音」の周波数(倍音成分)の要素
- ホールなどにおいて聴衆が聴くヴァイオリンの音は、直接音よりもホール内での反射音が多いのです。このような音は反響板、ホールの壁、座席、カーペットなどで倍音が吸収され、周波数成分が変化します。多くの場合、非常に高い倍音成分と低音域がカットされ、柔らかな音色(注1)になるのです。
これに対して、演奏者は楽器の響板に左耳を直接向けて演奏します。こういう姿勢では、非常に高い倍音成分(10KHz以上)がダイレクトに耳に届きます。そういった意味から、演奏者はキンキンした楽器に神経質です。あまりにも高い倍音成分(例えば10KHz以上)が多く出ているヴァイオリンの場合、長くその楽器を使っていると疲れてしまいます。酷い場合には、耳を傷めてしまう事さえもあるのです。
また、このような高倍音成分は、先にも述べましたように、実際にホールで演奏しているときには聴衆には届きにくいのです。しかし一方で、自分自身には大きく聞こえます。すると演奏者本人は楽器を大きな音で弾いているつもりでも、聴衆には大きな音で弾いているととらえられません。
注1:これを「艶やかな音」、「痩せた音色」・・・など感じ方は人それぞれのようです。
- 「弾いたときに感じる音」のレスポンス(発音特性)の要素
- 演奏者が感じる楽器の重要な要素には「レスポンス(発音特性)」があります。演奏者は弓で楽器に圧力を加え、楽器を振動させようとします。しかし楽器には共鳴振動モードがたくさんありますので、演奏者が加えた振動に対して反発するような振動を返してしまうのです。「ヴォルフ音」などはこの現象の代表例です。そしてヴォルフ音以外にも、「音がつまる」ポイント、「発音が鈍い」ポイントなどさまざまな発音特性のポイントが存在します(注2)。演奏者はこれらに対しても非常に敏感です。
注2:私のお世話になった故西牧先生(東工大名誉教授)は、この事を「機械インピーダンス」という表現をしていました。
- 「弾いたときに感じる音」と「聴いた時の音」との実験
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以前私の工房に、ある興味深いヴァイオリンが修理に来ました。そのヴァイオリンのE弦は、弾くのが苦痛なくらい「暴れ」があるのです。E弦を弾こうとすると、楽器の共鳴からくる反発があり、発音が鈍いのです。ヴォルフ音と似た現象と思って下さい。
そこでこの楽器のE開放弦の音を録音・測定して分析してみました。下のブラフはそのスペクトラムですが、予想通り倍音成分の横にたくさんの不協共鳴ポイント(赤丸印)が存在しています。普通の楽器の場合、これほど大きな共鳴ポイントが多く存在する事はありません。この共鳴ポイントが、弦の倍音成分と不協共鳴を起こし、汚く、そして鈍いレスポンスの音になったのです。
- 次に、以前紹介した「DigiOnSound2」で、この赤丸印のピークの部分のみをカットしてみました。このようなピンポイントの周波数特性変更実験を行う事ができる事は、数年前には夢のような事です。
さて、その結果ですが、私の予想としては音がずいぶん変わるだろうと期待していたのですが、修正前の音と修正後の音をヘッドフォンで聞き比べたところ、明かな音色の変化はありませんでした。もちろん違いは認められますが、全く別の楽器の音という程ではありません。
- まとめ
- 上記の簡単な実験(それと、同様の他の実験)から導き出した私の結論は、「音色を決定づけるのは、倍音成分の全体像(分布パターン)であり、一部分の周波数ピークの操作では音色に大きな変化はもたらさない」という事と、「一部分の周波数ピークの変化は、聴衆への音色には大きな変化をもたらさないが、演奏者への影響力は大きい」という2つの事柄です。
すなわち、もしも上記の楽器の赤丸印の部分のピークが無くなった場合、この楽器はずいぶんと弾きやすい楽器になる事は間違いありません。そのような意味では「音(特に演奏者にとっての)」は良くなります。しかし、もしも両者の楽器を聴衆の前で弾き比べたとしても、その違いに気づく人は少ないと考えられるのです。
ヴァイオリンを研究する上で、「弾いたときに感じる音」と「聴衆が感じる音」の2種を、同程度に重要な「音色」としてとらえる事は必須である反面、それを行う事はとても難しい事です。しかし、このような2つの「音色の要素」を考える事で、「新しい楽器と古い楽器の違い」など、様々な事の説明がつくのです。
今回の実験でもまた、「ヴァイオリンの音色の難しさ」が一つ判りました。これは確実に進歩です。