マイスターのQ&A
ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗
Q:象眼細工は意味のある装飾なのですか?
A:「象眼細工」とは、英語では「パーフリング」、ドイツ語では「アインラーゲ」と呼ばれる、楽器の輪郭に沿って施されている模様のことです。「象眼細工」という日本語は、ことモダン・ヴァイオリン族に関しては、少々仰々しい呼び方のようにも思えますが、とりあえず以後この日本語で呼ぶことにしましょう。
この象眼細工には、もちろん、きちんとした理由があります。
- 象眼細工の構造
- 象眼細工の事を、楽器の輪郭に沿って描かれている「線」と思っている方も多いようですが、実際は、表(裏)響板に細い溝を掘り、そこに白と黒の色違いの薄板を3枚合わせにして埋め込んでいるのです。象眼細工とは、この様な複雑な構造をしているために、その手間もとてもかかります。従って安価な量産楽器の中には、この部分を「線」として描いているだけものもあります。
- 装飾的な要素
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象眼細工とは、元々はまさに、バロック楽器の「装飾(細工)」でした。現在のヴァイオリン族で見かけるような単調のものではなく、様々な形をした象牙の小片を並べて埋め込んだり、または鼈甲の縞模様の細工のものだったのです。
さて、このような象眼細工が楽器の輪郭に沿って縁取られる理由は、その位置が細工しやすいという理由もありますが、楽器の輪郭を強調することによって、楽器の美観が良くなるとう効果のためです。現代のヴァイオリン族の象眼細工は非常に単純な装飾ですが、これを輪郭に施しただけで楽器の輪郭が引き締まり、とても美しい外観を生み出すことが可能になるのです。事実、象眼細工を施す前のヴァイオリンは、何か物足りない間抜けな感じさえしてしまいます。
- 楽器保護の要素
- 皆さんは意外に思うかもしれませんが、モダン・バイオリン族の象眼細工には、楽器を保護する意味があるのです。象眼細工は表(裏)板に溝を掘って、そこに埋め込まれています。そのため、例えば楽器の縁ぶつけてしまった場合(よくあり得る事故です)でも、象眼細工の溝が防波堤となって、割れが広がるのを防ぐのです。
最初の写真は、楽器の縁をぶつけてしまって割れてしまった状態です。この様に象眼細工があったおかげで、損傷(割れ)が楽器の中央部分まで広がるのを防いだのです。
- 次の写真は修理後の写真です。少々専門的になりますが、木目と平行した断面同士の接着修理は、ほとんど見分けられないくらいにできます。しかし、木目と直行した断面同士の接着では、確実に接着面が目立ってしまいます。しかし、この後者の接着断面を象眼細工の線で隠すことによって、修理痕がほとんど見えない修理が可能となるのです。「ヴァイオリンは修理の利く楽器」というのは、この様な絶妙な構造の組み合わせだからなのです。
- 余談になりますが、裏板は表板と違い堅い木(広葉樹)でできています。この様な木の場合には、楽器の縁をぶつけた場合でも、その割れが中央部分にまで広がってしまう確率は少なくなります。すなわち象眼細工の意味があまり無いともいえます。このために、古い手工楽器の中には、裏板だけ「手描きの象眼細工」というものもあるのです。しかしこの様な楽器は、長年の間にニスが磨り減り、象眼細工の線もかすれてしまうなどして、決して見栄えが良い状態とはいえないのです。
- 裏板全面に施されている象眼細工
- 象眼細工が、装飾性だけではなく、きちんとした意味のある細工であるこということを書いてきました。しかし、全ての象眼細工が必要というわけではありません。例えば、モダン・ヴァイオリンの中にも裏板にふんだんな象眼細工を施している楽器を時々見かけます。このような象眼細工は、装飾性以外のメリットは無いと言いきってもよいでしょう。それどころか、将来的なデメリットの方が気になります。全ての象眼細工が重要というわけでもないのです。
- 象眼細工の材料
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さて、本題からは外れますが、象眼細工の材料の種類を簡単に書いてみましょう。ここではモダン・ヴァイオリン族の製作に使われる白と黒の象眼細工についてのみ書きます。もちろんこれ以外にも、先に述べたような象牙や鼈甲などの装飾的な象眼細工の材料もあります。
象眼細工の構造は、基本的には白い薄板を2枚の黒い薄板でサンドウィッチ状にしたものです。製作者によってこの白と黒の薄板の厚みが微妙に異なり、一見同じように見える象眼細工にも特徴があるのです。その上に、材料によっても象眼細工の見栄えはかなり異なるものです。
白色の材料は、楓材が用いられることが多いようです。楓材は曲げやすいので、象眼細工の加工がしやすいのです。この他にはツゲ材が用いられることもあります。この材料はとても目が詰まっているために、それで作られた象眼細工には独特の艶がでるのです。欠点としては折れやすいので加工がしにくいということです。この他にも、若干茶色の色をした梨材が用いられることもあります。
黒色の薄板は、値段の安いところでは「黒色をした紙質繊維」が用いられます。この象眼細工(かなり多くがこのタイプです)の特徴は、安価であるという事と、曲げても折れないことです。しかし欠点としては、黒い色の部分が柔らかいために、よく目をこらすと、黒色の線幅に滲みが見られるのです。すなわち象眼細工がボヤッとしてしまうのです。
次によく見かけるのは、楓材などに黒色の色を付けているものです。この象眼細工は前述の繊維製のものよりもしっかりとしているために、見栄えも悪くありません。また加工もしやすいのです。特徴的には、ちょうど「中間」と言えるでしょう。欠点としては、先の繊維製のタイプにも同じ事が言えますが、長い年月がたつと、黒色の色が退色してしまい、象眼細工がボヤッとしてしまうことです。
他には、黒色に黒檀を用いた象眼細工もあります。黒檀は非常に堅い木なので折れやすく、曲げるのに高度の技術を必要としますが、この材料で作られた象眼細工には艶があり、また黒檀が周りに滲まないために、キリッとした凛々しい象眼細工となります。欠点としては、黒檀の性格上、非常に薄い板を作るのに高度の技術を要するという事と、黒檀はニカワと馴染まないために、将来象眼細工がはがれやすくなる確率が高いという事でしょうか。
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