楽器に付いている古い傷跡(斑点)の拡大観察
2016年1月24日 ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗
下写真のように、古い楽器には様々な傷跡(斑点)がついています。大まかに見れば、「黒っぽい点々」なのですが、よく観察してみるといくつかのタイプに分類できます。今回はこれらの傷跡について、顕微鏡で拡大して観察してみます。
楽器に付いている傷跡(斑点)の分類
楽器の表面に付いている黒っぽいを大まかに分類すると、「傷(斑点)」と「割れ」に分類できます。今回はその内の「傷」について観察してみます。
「傷(斑点)」を大きく分けると「木材層まで達している傷」、「ニス層だけの凹み」、「ニスに損傷が見られない、単なる斑点」そして「イミテーション傷」の4種類に分けることができます。そして次に、それらの傷に「どのような汚れが付着しているのか?」、そして「その後、そのような処置が施されたのか?」などによって、傷跡のタイプは異なってきます。
実際にはそれ以外にも、「何によって付いた傷なのか?」等に、さらに細かく分けることもできます。例えば、「ひっかき傷」なのか「ぶつけた事による傷」なのか、等々です。高度な技術者(特に修復技術者)は、それらの様々な傷跡を経験的に把握していて、その後の処置も、技術的な根拠を元に行います。また、楽器の鑑定(判別)なども、このような根拠の元に(もちろん、ニスの傷の状態は、そのほんの一部にすぎませんが)推測するものなのです。
いくつかの傷跡の例を紹介しましょう。我々専門の技術者も、このように傷跡を拡大して観察することはあまり無いことなので、全て興味深い写真です。ちなみに撮影はデジタルマイクロスコープ(Keyence VHX-1000)に100倍レンズを装着して行いました。写真中の青色の横棒が1mmです。
1. 汚れがまだほとんど入っていない傷
下写真は、約100年くらい前の楽器の裏板の傷です。ニス層が完全に剥がれ(硬めのニスの特徴です)、木材の表面も少しだけ損傷しているような傷です。これが何年前についた傷跡なのかは正確には判りません、傷跡を丁寧に観察することで、ある程度の時間は推測することができます。
この傷の場合には傷跡に黒っぽい汚れがほとんど入っていないません。それを考えると、50年とか、100年とかの古い傷跡ではないと予想できます。しかしその一方で、傷跡の木材の表面が汚れています。これはつい最近できた傷跡でないという証拠でもあります。興味深いのは、傷跡のニス層との段差部分に白っぽいものが付着していることが観察できます。おそらく、これはニス磨き剤と思われます。
2. 木材まで深くえぐれた、古い傷
これも約100年くらい前の楽器の表板です。ニスの層だけでなく、木材の表面までえぐれてしまっているのがわかります。その凹みに、長年の汚れがたまっています。傷跡の形、凹みの複雑さ、汚れの色など、明らかに複雑でその歴史を感じさせます。
3. 裏板の深い傷
これは80年くらい前の楽器の裏板の傷です。基本的に、表板の傷よりも裏板の傷の方が小さい事が多いです。というのは、裏板にはカエデ材が用いられていて、表板(松材)よりも固いので傷が付きにくいからです。また、表板は弓がぶつかったり、何かを落としてしまったり、またはぶつけてしまったり、ハイポジション奏法の時につく爪の跡などの傷が付くことが多いのですが、裏板の場合には楽器を置いたときにできる傷くらいしかつきにくいからです。
下写真の傷は、けっこう木材深くまでついている傷跡です。形が複雑で、さらに最低でも3種類の汚れが体積しているのがわかります。一つは不透明な濃い汚れで、もう一つは透明感のある薄茶色の汚れです。3つめは、白っぽい汚れです。磨き粉でしょうか。
このように、楽器についている汚れは一見黒っぽく見えるのですが、実は拡大して観察すると、単調な「黒色」ではなくて、「濃茶」とか「透明薄茶」色、または白っぽい色などの複雑な色をしているのです。
4. 表板の小さな傷
これは上写真と同じ楽器の表板です。これも傷跡はとても小さいのですが、深さは木材層まで達しているようです。表板は裏板と違って柔らかいので、このような傷が付きやすいのです。例えば楽器に爪を立ててちょっと強めに押しつけただけで、このくらいの傷は付いてしまいます。
拡大写真を見ると、傷跡の形はシンプルです。そこに長年の汚れが堆積したと考えられます。
5. 表板の小さな傷 その2
これも上の写真と同じパターンの傷跡です。ただし、上の写真よりも傷跡が浅いようです。また、汚れの色も比較的透明感があるので比較的新しいのかもしれません。
6. イミテーションの傷跡
一般の方は、この傷跡を肉眼で見ても、違和感は感じない方がほとんどだと思います。しかし、顕微鏡で拡大すると一目瞭然です。この傷跡は100%イミテーションの傷跡です。イミテーションの傷跡の中でも、低レベルの傷跡(もどき)と言えるでしょう。ニスの上に、単に黒いニスで傷跡のような模様を着けただけだということがわかります。描いた汚れが、筆のかすれや経年劣化によって、薄くなっていますし、汚れの色も単調な「黒」すぎます。それに、ニスの表面が全く傷んでいないのもおかしいです。
7. 傷と言うよりは、小さな凹み
下写真は、ニスに付いた傷というよりは、小さな凹みです。その凹みに汚れではなく、長年の間のニス磨き作業によって、ニスが溜まった事で色が濃くみえる部分と考えられます。一緒に木くず(粉)も混じって固まってしまっていることまで観察できます。この傷跡は比較的新しいと考えられます。
8. イミテーションの傷?
この楽器は50年くらい経った楽器の表板です。一見、"3." や "4." の古い傷跡と同じように見えますが、イミテーションの傷跡の可能性が高いです。というのは、汚れの色が単調な黒い色であるということ(写真は反射でうまく写っていませんが)、黒色が傷の凹みの内側だけでなく、壁を越えて周りまで染まっていることです。通常、透明度の無い濃い色は凹みの内側がほとんどで、周辺部分の汚れはもう少し薄くなっている事が多いのです。しかしこの傷の場合、汚れの色があまりにも単調すぎます。よってイミテーションの傷の可能性が高いです。もっとも、その傷を意図的に作られて(新作の時?)から数十年経つので、現在では明確には言い切れません。
9. イミテーションか? 本物か?、判断が微妙な跡
傷跡の特徴としては "6." と同じです。下地の損傷は全く感じられないのと、黒っぽい色が単調なこと、黒っぽい色の層の厚みが感じられない事が、イミテーション傷跡の雰囲気を感じさせる要因です。しかし、形状的には人工的な感じはせず、自然に付いてしまった汚れという感じもします。この写真だけでは、断定はできません。しかし、どちらかと言えば、古い時代に付けられたイミテーション傷跡ではないかと思われます。
10. イミテーション傷跡
20世紀初頭に作られた量産楽器の古い楽器のイミテーション仕上げの傷跡です。ニスの上に濃い色のニスを垂らしたために、傷跡(染み跡)の周りが染料で滲んでいるのが判ります。また、濃い染みの中央部分に、ニスの樹脂分が固まってツブツブの状態になっているのがわかります。これは、本体のニスを塗った後から意図的に黒っぽいニスを垂らして、オールド仕上げのような古色を着けたときにできる特徴です。
11. イミテーション傷跡
上(10)と同じ楽器の、別の部分の傷跡(染み跡)です。特徴が全く同じです。黒色の染料が右斜め下方向に流れて、ぼやっと濃くなっているのがわかります。中央部分の白色の付着物は、本物の汚れだと思います。
12. とても古い傷跡
以下10.~12.の写真の楽器は1700年代に作られた楽器に付いている黒っぽい傷跡の拡大写真です。この写真では、傷跡の一部分がちょうど欠け落ちていますので、そこから木材の地肌を観察することもできます。この黒っぽい跡は、肉眼で見ると一見9.写真の斑点と同じ様に見えますが、拡大して観察すると濃斑点の層が、ニス表面ではなく、もっと深いところに存在していることが判ります。おそらく、初期の段階ではニスの凹みに濃い汚れが溜まり、それが木材表面に付着したと考えられます。しかし長年の使用において、次第にニスが薄くなり、木材表面に付着した濃斑点だけが残ったのではないでしょうか。そしてその上から、長年のニス修理や磨き作業において透明ニスが塗り重ねられて、コーティングされたものだと考えられます。また、その色も、単調な黒色はしていません。
13. とても古い傷跡
写真 "5." と似ていますが、楽器の全体的な状態から判断すると、この斑点の時代も写真 "5." よりもずいぶん前のものと考えられます。実際、斑点の上に透明ニスの層ができあがっているという違いは見て取れます。しかし、この1枚の写真からだけでは、傷跡(斑点)の年代を想像することは不可能です。
14. 樹液の結晶化?
下写真も上と同じ1700年代の楽器の裏板の傷跡です。興味深いのは、カエデ木材に最初から付いている茶色の小さな斑点の中に、黒っぽく固まっている部分が多く存在している箇所です。おそらく、木材中の樹液が染みだしてそれが結晶化したのではないでしょうか? 傷跡の横割れの部分の周辺も黒っぽく汚れています。これは汚れが溜まったというよりは、樹液状の物が染みだして、それが固まったか、または汚れを付着する原因になったと考えられます。これも、傷跡(斑点)から、楽器の歴史を感じさせる写真です。
このように、肉眼でパッと見た目には全て同じように見える、わずか1~3mmくらいの大きさの傷跡や斑点にも、それぞれの特徴が有り、その歴史を見ることさえ出来るのです。